ここは管理人秋嶺がくだらない日常や思想、妄想を書き綴っていく場です。
日本史
-長屋王の変-  後半



729年に起きた「長屋王の変」から9年後、藤原氏を次々と不幸が襲います。

長屋王誅殺に活躍し、以来政権を独占していた藤原四兄弟が、流行病におかされ、わずか四ヶ月のうちに立て続けに死んでいったのです。

病名は喪瘡(天然痘)でした。
 
もちろん病に倒れたのは藤原四兄弟だけでなく、中級官僚まで含めると十数人―。

現代的にいえば、閣僚の半数以上がバタバタと死んでいったことになります。
 
この異常な出来事に、人々は震え上がります。

そこで人々の脳裏に上がったのが、前回紹介した長屋王一族の非業の死でした。

 聖武天皇とその妃・安宿媛(光明皇后)の恐怖はとりわけ深刻で、以来、二人は長屋王と吉備皇女の怨霊に悩まされ続けます。

『続日本紀』に「皇后、寝膳安カラズ」という言葉がしばしば出てきますが、これは当時彼女が食事もとれず眠れもしないノイローゼ状態であったことを示しています。

気の弱い夫の聖武に関しては、その病状はさらに深刻でした。

 聖武と光明という奈良時代の栄光の象徴ともいうべき夫妻は、現実には罪の意識にさいなまれ、おびえきった一生を過ごしたのです。

 四兄弟の死後、藤原氏はかつての団結力を失い、光明皇后はその後は子宝にも恵まれず、ノイローゼ気味になった聖武天皇に至っては、呪われた奈良を逃れて、難波・恭仁・紫香楽と次々と都を移し、さまよい続けます。

 その後、奈良に戻った聖武天皇の健康は回復せず、ついに756年、大仏の完成を見ずにその生涯を閉じました。



〜おまけ〜


 長屋王の変から約10年後(738年)の7月10日には王の事件の真相が明らかになってしまいます。

王のことを誣告した人物の一人である中臣宮処東人(なかとみ・の・みやこ・の・あずまびと)が大伴子虫により斬殺されてしまいます。

『続日本紀』によると、子虫は長屋王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっている。

なお、この事件に関して大伴子虫は罪に問われていない。


〜感想〜


なかなか興味深い事件でした。

いくら藤原氏といえども、病には勝てなかったようですね。

皮肉なものです。



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